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再発・転移・進行・末期のガン対策

ガン体験者との対談

松野三枝子さん スキルス性胃ガン 多臓器転移から12年

津波にのみ込まれたこの命、何かしなきゃ!
2018年6月 がん治っちゃったよ!全員集合!(名古屋)講演より

【松野三枝子(まつのみえこ)さん プロフィール】

宮城県南三陸町在住。12年前、末期のスキルス性胃ガンと宣告され、食道、胃、胆管、胆嚢、脾臓、片腎を摘出。5年後、入院治療中に東日本大震災が起こり、津波に遭いながら九死に一生を得る。心身ともに変化が起こり、避難所で懸命に炊き出しを行い、再入院した病院でガンの消失がわかる。2014年1月、心の拠り所を作りたいと、夢を叶え、レストラン「農漁家レストラン松野や」をオープン。松野さんの存在を知った多くのガン患者さんが訪れている。


松野三枝子さん スキルス性胃ガン 多臓器転移から12年
パワー全開で語る松野三枝子さん



◆入院中に東日本大震災◆

皆さん、はじめまして。

ちょっと見た目に、本当に病気なのかしら!?と思う方もいらっしゃるでしょうが、今、ご紹介あったように、臓器をかなり摘出しました。(笑)

私は、宮城県の南三陸町・・・7年前の東日本大震災で街がほとんど水に沈んだ所・・・で、当時、体調を悪くし入院していました。地震による津波は、入院していた志津川病院の4階病室のカーテンレールまで達しました。その時、私はちょうど旧病棟のお風呂に入っていました。点滴と輸血のため寝たきりで、1週間ぶりの入浴でした。広めの水槽のお湯が、だぼんだぼんと大きく波打ちました。

私は、昭和28年生まれ。小学1年生の時に、チリ津波を体験しています。母は妹を背負い、私には一人で逃げるよう指示しました。志津川の駅前の海寄りにあった自宅を飛び出し、迫り来る津波を背にしながら高台めがけ一目散に駆け出しました。途中、転んで地面に這いつくばっていると、後続の大人に「死にたいのかッ!?」と猫のように後ろ首をつかまれ立ち上がり、また走り出して、生き延びました。

ですから、病院のお風呂で遭遇した揺れは、ただ事ではない! 絶対に津波が来る!と瞬時に思いました。病院のすぐ近くにある役場の防災スピーカーが、「6mの津波が来ます!!」「8mのが来ます!!」「逃げてください!!!」と絶叫しています。・・・私、流されるなぁ・・・裸でかぁ(笑) 死ぬことより、そんなことが頭に浮かびました。(笑)

そして、最後の一撃のような大揺れで浴室の引き戸が開き、湯船のお湯ごと室外に流されました。廊下に放り出された私を、1人残っていた看護師さんが見つけ、「残ってたのー!?」と駆け寄り、バスタオルを1枚くれました。100m先にある新病棟との中間地点にある出口めがけて、看護師さんが「松野さん、走れ!」と私の手を掴んで引っ張ります。バスタオルを巻いただけの格好で(笑)、走りながら見た津波は、チリ地震の後に造られた2.7mの防潮堤をはるかに越えた10mという巨大な化け物。あれが襲ってくるんだ!と、夢中になって走り、なんとか非常用のらせん階段に辿り着きました。病院職員の方が私を引っ張り上げ、一緒に逃れてきた看護師さんが私のお尻を押し上げてくれました。階段を数段上がった直後に、真っ黒い水がまさに怒濤となって3階に流れ込んで来ました。

ぐるぐる階段を駆け上がる途中、同室だったおじいちゃん、おばあちゃん、付き添いの女の子が、「松野さ~ん!」と叫びながら流されて行くのを、、、ごめ~ん!と、目をそらすしかなく、屋上をめがけました。病院の目の前にあった実家は、アニメのシーンのように一瞬でペチャンコ。屋上に非難したものの、一つ下の4階までのみこむ勢いの濁流が轟々と迫り、いつここまで上がってくるかと生きた心地はしませんでした。50kgはあるガンスボンベにしがみついて流されている若い男の子が、私たちを見つめながら「助けろ!バカヤロー!手出せー!」と叫ぶ。でも、もの凄い恐怖で震えるだけの体は、動くことができませんでした。

津波を防ぐための防潮堤が、逆に侵入してきた水を堰き止め、南三陸町は一昼夜水浸しのままでした。屋上にいた私たちは、夕方4時頃には降り出した雪を身に受け凍えていました。バスタオル1枚の私に、どこからか衣類を持ち寄ってくださいました。

私たちの目の前を20歳くらいの女の子が乗った赤い車が、山の方へ流されていきました。山まで辿り着いて引っ掛かればいいねと話していたら、引き水で同じ車が戻ってきたのです。車の窓を開けることもできないのでしょう。女の子はハンドルにしがみついたまま、泣きながら私たちを見つめ海の方へ引き流されていきます。最後、防潮堤の遙か上を波とともに乗り越え、ストンと落ちて姿が無くなりました。それを屋上で見ていた人たちから、「うわー」と叫喚が発せられました。

あるドクターが、「もう屋上から離れよう。5階の会議室を片付けたから、そこに移動しよう」と声を掛けました。会議室には、新聞紙や段ボールが敷かれ、3列に患者さんが溢れていました。私たちは、会議室の四方の壁際に沿って置かれた机の上で、夜を過ごしました。

そんな凄まじい状況にあって、自分は生きてしまった。私は末期ガンなのに・・・。


松野三枝子さん スキルス性胃ガン 多臓器転移から12年
壮絶な体験にはユーモアも



◆吐血 意識不明 救急搬送◆

南三陸町は海の幸に恵まれ、お祭りなどイベントの時には、海鮮の炊き込みご飯・・・ウニ、ホタテ、アサリ、タコ・・・や、海鮮焼きそばなどが名物として提供されます。主人は林業、私は農家で、合間にイベントの仕事もしていました。前日まで、大型のワゴン車を自分で運転しバリバリにやっていました。ホタテ飯5升、五目ホタテ飯5升、ウニ、アサリ、タコは各3升くらい。毎朝炊いて、入れ物に移し、それを積んで仙台まで運び、またその日のうちに南三陸町に戻って来る。その2日目、その日はウニ飯を5升釜で炊きましたから、重量は29kgくらい。それを私、普段はひょいと持てるのに、その日に限って持ち上がらない。うん!? たまたま、自衛隊で北海道に駐屯している息子が休みで帰ってきていて、「悪いんだけど、ママ、ちょっと変だから手伝ってくれない?」 快く引き受けてくれた息子は、仙台までの運転を引き受けてくれました。ワゴン車の後ろに乗って仙台に着くと、いつものようにドアをスライドさせて両足で踏ん張ろうとした瞬間、吐血しました。あたり一面を黒ずんだ血と鮮血が覆うのを見ながら、意識が遠のきました。救急車に乗るまでは覚えているのですが、それ以降は記憶がありません。

仙台の厚生病院に搬送された私は、食道の付け根と胃の下部の2ヶ所に親指と人差し指で円にしたくらいの大きな穴が開いていると教えられました。診断は、スキルス性胃ガン、しかも全身に転移している末期で余命はありません(いつ死んでもおかしくない)と、意識が戻って3日目に説明を受けました。


松野三枝子さん スキルス性胃ガン 多臓器転移から12年
共演者とのトークセッションでは来場者の質問に丁寧に答えてくださいました



◆大恋愛の末に嫁いだ先には鬼婆がいた!◆

私は昭和48年、当時19歳で24歳の主人と大恋愛、周りにすべて反対されるのを押し切って結婚しました。嫁ぎ先のお姑さんが、東北で一番名を轟かせるほどの鬼婆でした。(笑) 「農家の嫁に銭はいらない。好きで来た嫁だから、お前は手一杯頑張れ」 

私の実家は、父が肉屋、母が惣菜屋ですから、私は比較的食べ物にも恵まれた環境で育ちました。ところが嫁ぎ先は、米と味噌と味噌漬けがあれば食うに困らないという主義の家でした。「じゃ、私なんとか切り盛りしなきゃ!」と思いました。11人家族で、毎日7つの弁当を作らなければならない。でも、お台所のお金は一銭も貰えない。結婚前の実家での生活は、朝、惣菜屋を手伝い、昼間はお勤めしていました。結婚後も勤めは続け、お給料をお姑さんに渡します。その中から1万円だけ、生活費として支給されました。お弁当の食材費を請うと、やり繰りできるかどうか嫁としての試練だと、にべもなく断られました。

どうしようかと頭をひねり、農家なので土地はある、そこで採れた物で何とかしようと思いました。毎朝2時に起きて、天ぷら揚げて総菜をつくり、各お店に卸し出勤していましたから、早起きはお手の物。夜明けと共に山に行って山菜、川辺でクレソン、わさびを採り、工夫していろんな料理をこしらえました。それを見ていた姑が、「やればできる。そのままやれ」(笑)

「まいったなぁ」という感じでしたが、(主人のことが)好きで来ましたから、負けるわけにはいかない。お勤めしながら、農家の仕事もこなす。私は左利きなので、鍬も左手で扱います。そんなことも姑から咎められたりしました。今に姑をギャフンと言わせようと、頑張りに頑張りを重ねた挙げ句、倒れてしまったのです。


◆瀕死の療養生活◆

私が倒れたのが、まあ、運がいいというか、林業を営んでいた主人が鬱になりまして、5年ほど引き籠もっていた時期でした。病院は私のスキルス性胃ガンから知見を得たかったようです。医学的関心から「(お腹を)開けてみたい」と要請された時、私は死ぬんだなと察しました。実際は「あ~、そうか、死ぬんだ。よかったなぁ~」と思いました。あの鬼婆の顔を見ずにあの世に行ける。トラクターや耕耘機の操作、広大な土地の草取り、すべて一人でやってきました。もう働かなくていいんだ。ラッキー!(笑)

主治医によれば、私は下血もしていて、血液の70%近くを失い、生きているのが不思議な状態でした。従って1ヶ月輸血をしてから、開腹手術となりました。倒れたのが8月7日、手術が9月13日。手術室に入る前に、主治医から「松野さん、ご家族にしっかりお別れしてきなさい」と言われました。「そうか、助からないんだな」と悟りました。20歳のお嫁ちゃんと3歳の孫がいて、この孫にランドセルを買ってあげるのが夢だったのにな・・・。それでもメソメソしちゃいけないと、「どうなるかわからないけど、行ってくるね!」と手術に向かいました。

手術中は、お花畑の夢を見ていました。きれいなお花畑でしたが、三分咲きか五分咲きだな、できれば満開の時に来たいなと呟いた途端に、意識が戻りました。看護師さんが、「えー!?意識戻ったの!?」とすごい勢いで私の所に駆け寄って来ました。「松野さん、ホントッ!?」 暗闇の中、私が居たのは霊安室にいちばん近い部屋で、隣にはお亡くなりになった人が横たわっていました。看護師さんに「ここから出して」と言うと、「松野さん、もう少しそこでがまんして」と、一晩そこにおりました。(笑)

胴体の両側には輸血や点滴やら、6本のチューブが挿入されていました。主治医が言うには、その6本のチューブを両手で抱え、さらにカートを握って、自力歩行で部屋に戻れれば、あなたは生きられます。途中で倒れたら終わりよ。綺麗な女医さんですが、言うことはキツイ。だって私の病室は、いちばん遠い部屋なんですから。(笑) 医師、看護師、ケアの方が付き添いながら、1時間以上かけて部屋に辿り着きました。

その後が、また大変だったのです。体重が30kgを切ってました。それまでは58kgくらいで、バレーボールではセッター、綱引きではトップを務め、背は小さいけど力持ちでもありました。60kgの米俵を担いで100m走れました。その私が、体重が28kgまで落ち、二本足で立てなくなって1年6ヶ月。この状態で家に居ても、お嫁ちゃんが可哀想。主人に頼んで、自宅から1時間半離れた鳴子温泉の療養所に入所しました。お風呂のすぐ隣の部屋が取れたので、自力で這ってお風呂に入りました。2週間に1回、主人と息子が抗がん剤治療のため、療養所から病院へ私を連れて行ってくれました。抗がん剤治療の帰りには、まだ鬼婆が健在でしたから(笑)、挨拶をして鳴子温泉に戻りました。そういう生活を、3年6ヶ月続けさせてもらいました。家族のおかげで、生きながらえました。


松野三枝子さん スキルス性胃ガン 多臓器転移から12年
メッセンジャーの表紙を飾ったサバイバーさんが勢揃い



◆がんがどっか行っちゃったよ!◆

震災の翌日、病院を脱走し、普段なら車で5分ほどの距離にある自宅に向かいました。家に着くまで2時間40分かかりました。本来なら、津波にのみ込まれたこの命、何かしなきゃ! それには私らしいこと。あったかいご飯を炊いて、みんなに食べさせることだ! とにかく立ち上がらなければ!

必死になって炊き出しをしました。その姿を偶然にテレビの撮影カメラが捉え、それを見た仙台厚生病院の先生が、「あんた、津波で生きてたの!?」と連絡をくれました。そして、常用していた薬~今でも私はかなりの種類の薬を飲んでいます~を処方してあげるからということで厚生病院に行き、2ヶ月後に検査を受ける段取りになりました。震災当時の病状は、転移で肺が砂嵐のようになって、黄疸も出ていて、あまり見込みはないけど入院してできる治療をしていたのです。

そして2ヶ月後、厚生病院で検査をすると、なんとマーカーの数値が現在と同じくらいに下がっていました。「松野さん、奇跡が起きた。がんがどっか行っちゃったよ!」 医師のその言葉を聞いて、「よし!完全復活!」(ガッツポーズ) という訳で、現在も、農家、農漁家レストラン、出張イベント、ばっちりやっています。(笑)

ご静聴ありがとうございました。


◆「農漁家レストラン 松野や」の情報はこちら!

◆松野三枝子さんの記事は「メッセンジャー49号」(杉浦貴之さん発行)にも掲載されています。




【編集長感想】

松野さんのお話を聞かれた参加者は、胸が締め付けられながらも、心にエネルギーが湧いたことだと思います。

震災直後の松野さんは、いてもたってもいられない。あったかいご飯を食べてもらうことに、自分の命を使い果たそうとした。そうしたら松野さんの体は、「病気やってる場合じゃない!!」と、命の目的に沿うためのバージョンに変化したのでしょう。








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