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再発・転移・進行・末期のガン対策

ガン体験者との対談

山上りるも さん(筆跡診断士) 42歳で卵巣ガン

ないものねだりはせず、自分の好きなしたいことをして生きて行こう!
2015年11月9日 大阪の講演会会場にて
「私の体験の一コマが、私の言葉の一辺が、苦しんでいる方々の役に立つことを願って…」 自らの卵巣ガン体験を語る講演会を企画された山上りるもさんに、お話を伺いました。


山上りるも 卵巣ガン
講演前でしたが、たっぷり語ってくださった山上さん(右)と編集長



◆ガツガツ生きてきた!◆

小澤
今日の講演会、楽しみに参りました。山上さんは、ご自身のガン体験をブログでも発信されていますが、今回は自ら講演会を企画された。それはどんな理由からですか?

山上さん
発病当初、同じ病を患った人の生の声を聴きたかった。自分が望む治癒を経験した人に会いたかった。しかし、インターネットで[がん 講演会]といくら検索しても、私が欲する情報にアクセスすることができなかったのです。ならば、私の命が続いていたら、同じ苦しみを持つ方々の役に立ちたい。術後無事5年経過したら・・・そう心に秘めていたのです。

小澤
では、5年経過されたのですか。おめでとうございます。

山上さん
ありがとうございます。正確には来年の2月で5年なんです。でもね、最近の相次ぐ芸能人のガン報道や訃報に触れて、「そうだ!いま、伝えなければ!」という気持ちになったんです。

小澤
2月まで待てなかったのですか?

山上さん
実は来年2月の予定でチラシ製作を進めていました。「でも、今やらなければ遅い!」という思いに、いてもたってもいられなくなってしまって。それでふとカレンダーを見ていたら、11月9日・・・母の命日にスタートすることにしたのです。

小澤
ああ、それで平日のしかも月曜開催になったのですね。

山上さん
内心、いつまで生きられるのかわからないという不安がありました。それで5年というタイマーを自分自身に設定して、それを過ぎれば時限爆弾が不発になるような気がしていました。でも、なにか吹っ切れたんです。5年経たなくてもいいんだと。

小澤
ガン体験を語ることは、山上さん自身にとっても意味のあることのようですね。

山上さん
私の体験を聞いて、一息ついてもらえるだけでもいいと思っています。

今まで私は、すべて自分のために生きてきました。お金と人脈を求めて生きてきたんです。子どもの頃、家にお金が無いことで情けない思いをしたからだと思います。その経験から、お金が無い人生は不幸なんだと身に染み、自立して強く生きることを肝に銘じたんです。

小澤
いやぁ、そんなふうには見えなかったです。

山上さん
とくに人脈を広げることには執着しました。ご紹介された人の背後に繋がっている方々にまで目を向け、交流の場や飲み会は欠かさず参加する。結局、体を酷使しました。

小澤
ガンになる前に体は悲鳴を上げなかったですか?

山上さん
警告はありました。母が亡くなって1年3ヶ月後、胃が痛くなって血便が出ました。検査すると胆嚢が腫れていたんです。でも、当時の私は司会業もしていて、治療に専念する時間が取れませんでした。それで、九州の胆嚢の名医のところなら日帰り手術ができるというので受けに行きました。4日後、お腹の痛みをかかえながら結婚式の司会をしました。

小澤
でもその頃は警告とは捉えなかったのでは?

山上さん
胆嚢が腫れた原因はわかりません。ドクターには無事取れたからもう大丈夫と言われました。「自分はなんてラッキーなんだろう。ここぞという時は、いつも良いドクターにめぐり会えて治る」 そう高を括っていました。

小澤

それじゃ、今までの生活を変えることはなかったでしょう!?

山上さん
調子に乗って、バンバン仕事しました。

小澤
警告無視だ!


山上りるも 卵巣ガン
司会業をされていた頃の山上さん 



◆去っていった人たち、救ってくれた人たち◆

山上さん
それから1年後、おしなさん(ラジオパーソナリティ 卵巣ガン経験)と出会いました。

小澤
あれっ、おしなさんとはガンになる前からのお知り合いでしたか?(おしなさん:ラジオパーソナリティ・卵巣ガン体験者、ガンの辞典に体験記事を掲載

山上さん
おしなさんが番組を持っているFM局で、私の同級生がDJをしていました。その同級生から筆跡診断について話してほしいという依頼があり、放送局(兵庫県西宮市 さくらFM)でおしなさんと出会ったのです。

小澤
そこでお二人のご縁ができた。

山上さん
その後また、おしなさんの番組に呼ばれた際、彼女からガンであることを告白されました。びっくりしたのですが、私は両親ともガンで亡くしていたこともあり、その話題に向き合おうとしませんでした。どこ部位のガンかも聞きませんでした。

小澤
山上さんにとっては避けたい話題だったのかな?

山上さん

“人ごと”って感じでしたね。それが3月頃だったと思いますが、その年の12月に私の卵巣にガン(高い確率でガンであろう)が見つかったんです。

小澤
蓋をして目を背けていた嫌な物に自分が襲われてしまった!?

山上さん
それはもう奈落の底に突き落とされたような気持ちでした。そんな時、おしなさんから「りるもさん、元気?」とメールが来たんです。

小澤
おしなさんは、りるもさんのガンのことをまだ知らなかったのですよね?

山上さん
知らせてません。「忘年会しよっか?!」と誘ってくれました。私がガンだと判った途端、私の友人はみな私から距離を置くようになっていました。たぶん、どう接していいかわからなかったのだと思います。

おしなさんと西宮で再会してすぐ、私はおしなさんも卵巣ガンだったことを知りました。そして、おしなさんの告白を聞いて少しも寄り添うことをしなかった自分を恥じました。泣いて謝りました。すると、おしなさんは「気にしないで。でも、同じ卵巣ガンでよかった。同じガンだから少しはアドバイスできる」と言ってくださった。その言葉に、私は救われました。

小澤
おしなさんの存在でひとまず落ち着くことができたわけですね。

山上さん
それからは、動き回りました。自分で納得して治療を受けたかったからです。信頼できるドクターに任せたかったんです。だから、病院に直談判もしました。そうこうしているうち、兄が高知の病院の情報をくれました。高知に出向いて診察してもらうと早く手術はしたほうが良いという所見でした。そこに至って、私は卵巣ガンであることを受け入れることができました。

小澤

まだ病気自体を受け入れられなかったのですね。自分の足を使って、何人ものドクターに会って、ガンを認め手術することを納得できたんですね。

山上さん
私としては、「なんで私が(ガンに)?」「ここまでこんなに頑張ってきたのに!?」という思いがありました。世の中にはもっと悪いことしている人たちがいるのに・・・。

小澤
私がガンになるなんて理不尽だと。

山上さん
でも高知に行って吹っ切れました。お金と人脈・・・損得を計算して生きてきた。その生き方を変えないといけない。きっぱり、そう思いました。


山上りるも 卵巣ガン
放送局のレポーター時代の山上さん



◆ないものねだりはせず、自分の好きなしたいことをして生きて行こう!◆

山上さん
主治医から告げられた術式は、卵巣と子宮の全摘出でした。「もう42歳だから全部取っていいよね!?」 それを聞いた私は、家に帰って大泣きしました。私は女じゃなくなるの・・・あまりに大きな衝撃でした。

それで主人に頼みました。開腹して、ガンが肉眼で見当たらなかったら臓器を温存したい。抗ガン剤は使いたくない。主人は同意してくれました。

小澤
温存手術で抗ガン剤を使わないという選択は、医学的には再発率が高いことも承知のうえで、手術前から抗ガン剤は使わないことに決めていたんですか?

山上さん
母の経験から抗ガン剤には否定的な考えを持っていました。それと、願うものの子どもが授かりませんでした。自分では40歳を目安に諦めることにしていたのですが、本心では諦め切れていなかったのでしょうね。卵巣を失うことにかなりの抵抗がありました。

小澤
そうでしたか。

山上さん

温存手術と抗ガン剤を使わないことの誓約書にサインして手術に臨みました。結果は、ガンと確定し、目視によって右の卵巣のみ摘出でした。

小澤
主治医は山上さんの希望通りの手術をしてくれたのですね。

山上さん
目で見える範囲ながら、右の卵巣に限られていて転移がなかったので、次は「これからどう生きていこう」という対策に集中しました。術後、身の回りのことを手助けしてくれた筆跡診断の仲間が、一冊の本を手渡してくれました。安保徹先生の本でした。

小澤
ああ、免疫革命の安保先生ですね。

山上さん
安保先生の本と高知の病院の先生の本を読んで、「私、生きていけるかも」と思えました。でも一方で、主治医は退院2日前まで抗ガン剤治療を受けるよう私を説得しました。組織検査から、何もしないと半年から1年で再発するとの予測でした。私は「抗ガン剤治療をして治る確率はどのくらいなのですか?」と質問しました。主治医は「20%、30%、いや、わからない。でも、君に合う抗ガン剤を見つけていくから」と言われました。

小澤
主治医の先生、よほど再発転移が心配だったのですね。

山上さん
それでも私は、きっぱり抗ガン剤治療を固辞しました。ただ我儘を承知で、抗ガン剤はしませんが経過観察の検査だけしてほしいとお願いしました。

小澤
受け入れてくれました?

山上さん
認めてくださいました。それからは検査でお会いしても、抗ガン剤のことは一切持ち出されませんでした。しばらく経って主治医から、「君は忘れられない患者の一人だ」と言われました。その理由は、「君は僕の言う事を何も聞かない。そして頑としてブレない」と。

小澤
山上さんはどうしてブレずにいられたのでしょうね? 抗ガン剤が恐いというけど、「恐怖のモチベーション」だけで、そんなにブレずにいられるものでしょうか? 

山上さん

私は、とにかく抗ガン剤が恐かったんです。自分にとって危険な毒物だと信じ込んでいんです。抗ガン剤を使った母親の急変した容態が強烈だったからでしょう。でも実際は私の心の中ではブレもあったのですよ。ただ、医者任せにはしたくなかったし、自分で決めたかったんです。自分で納得して自分がよいと思ったことをしたかっただけです。

小澤
すると、頑なに抗ガン剤を拒むという姿勢は、自分で責任を負って決断し行動するという、山上さんが最も大切にしている生き様そのものだったんですね!? 自分の人生は自分で切り拓いていくというスタイルを貫くことが、山上さんらしい病気治しなのですね。

山上さん
それで死んでもいいという覚悟はできていました。

小澤
ということは、山上さんが身に付けた生き様は、一方でガンを生む温床になったが、他方でガンを治すことももたらしたわけですね。

山上さん
そういうことですね。ガンになってから、いらないものは手放して、女性として生きて行こう。ないものねだりはせず、自分の好きなしたいことをして生きて行こうと思うようになりました。

小澤

ご協力ありがとうございました。



◆山上さんのブログはこちら!

◆オフィスりるも(筆跡診断士)の公式サイトはこちら!



【編集長感想】


山上さんは、今後もご自身の体験を語る機会をつくっていかれるそうです。体験談をお聞きになりたい方は、上記サイトにてご確認ください。











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