再発・転移・進行・末期のガン対策

ガン体験者との対談

藤江法子さん 乳ガン・リンパ転移

未来が私を救ってくれた!
2018年10月 いずみの会 おしゃべりサロン 体験者発表より(名古屋市)
乳ガンをきっかけに、10年越しで自分を取り戻した藤江法子さん。現在は、憧れていた桜の樹のような生き方をしています。


藤江法子さん 乳ガン・リンパ転移
いずみの会 おしゃべりサロンで熱弁!



◆鬱、ガン、怒る!◆

私の乳ガン(左乳房)が判明したのは、10年前になります。そもそもは、男性にDVを受けたことが引き金となって、鬱病を発症しました。DV環境から脱するために転居したことで、鬱が落ち着きだした頃、ガンが見つかったのです。もう当時は、鬱で苦しいのか、ガンで苦しいのか、定まりようのない心持ちでした。ただ、いま振り返ってみると、ガンになったことで10年掛けて鬱もガンもよくなっていったと思えています。

私はフリーランスの講師を仕事にしていたので、社内検診などはありませんでした。しゃべる仕事なので、喉の検査は受けていましたが、乳ガンはノーチェックでした。胸のしこりに気づいたのは、入浴中でした。セルフチェックの大切さを学びました。変な話、しこりは左右両胸にあったので異状とは思えず、友人に問うたところ、彼女にはないという返答でした。それで「これは腫瘍だ」と察し、ある大学病院で診察をしてもらいました。ところが、担当したドクターが軽んじた対応で、乳腺症という見立て。その日はひとまず検査し、1週間後に検査結果を聞きに行くと、悪性の可能性があるということで再検査。ところが再検査で今度は不明と言われ、「ちょっとこの医者、アブナイ」と感じました。(笑)

その後の方針にも納得がいかなかったので、セカンドオピニオンを希望したら、紹介状は書けないと断られました。「このドクターとでは、病気を乗り越えられないな」と思い、繰り返し紹介状をお願いしました。にもかかわらず、ドクターは、「書けない」の一点張り。普段、激昂することのない私もさすがに堪忍袋の緒が切れ、これ以上ここでは診てもらわない!と言い捨て、診察室を後にしました。

なぜそんなに怒ることができたのかといえば、やはり命の危機という意識があったからだと思います。しかし、怒り狂ったことはいいとして、さてこれからどうしよう・・・。別の病院に行って事情を話し、初診として診てもらえないかと相談したところ、紹介状がないと受け入れられないと突っぱねられました。泣きたくなるほど途方に暮れていたら、たまたま総婦長さんが通りかかり、声を掛けてくれました。経緯を話すと、総婦長さんが取り計らってくれて、元の病院から紹介状が発行されました。

結局、検査を一からやり直して手術ということになりました。今度の主治医は、「この先生ならいける!」と女の勘が働きました。(笑) 術式に関しては、譲れないものがありました。主治医は、腫瘍の大きさ、悪性度から全摘という判断。私は女性としてのアイデンティティを失いたくないので、部分切除を希望しました。(当時、乳房再建は全額自費だったので、再建術は選択肢になかった) 主治医に何度も掛け合いましたが、全摘を取り下げません。ところが、右胸にあった良性腫瘍を予防的に切除することで左右の形状のバランスが取とうという落とし処で合意し、部分切除となりました。ただし、周囲にガン組織が確認されたら全摘する。術後に抗ガン剤と放射線を必ず受けることを約束させられました。最終的には、リンパ転移があったので左側はリンパ郭清もしました。


◆つらい抗ガン剤治療と心の支えになった仕事◆

手術は成功し、手術跡もとてもきれいでした。主治医に感謝しました。ところが、本当に大変だったのは、その後でした。私は、手術して2日後には職場復帰しました。一人暮らしなので、生活のこともありました。しかしそれより、唯一、自分を認められるのが仕事だったのです。鬱になったきっかけのDVは、「私がダメだから受けるんだ」と解釈していました。自己への否定感が強かった。仕事には自信を持っていたので、自分を受容し自分を保てる時間だったのです。ですから、夢にまで出てきました。点滴しながら、仕事します!仕事します!(笑)

半年に及んだ抗ガン剤治療。これがもの凄くつらかったです。それでも私、仕事を休みませんでした。フリーランスなので仕事量は調整しましたが、どんなに体調がすぐれなくても、どんなにフラフラしても、休みませんでした。体の痛みがひどく、とくに朝起きるときがもの凄く痛くて、号泣しながら支度しました。終いには、ガンでつらいのか、鬱でつらいのかの区別もつかない有様。生きるために治療していたにもかかわらず、毎日、死ぬことばかり考えていました。

それほど悲惨な抗ガン剤治療でしたが、よかったこともありました。髪や睫毛が抜け落ちて、頭部からしたたる汗が目に入ったとき、「睫毛って汗が目に入るのを防いでくれていたんだ!」ことに初めて気づきました。毛髪が再生するときの感動。そんな些細なことが、とても幸せに感じられました。痛みが和らいで普通に歩けるようになったときも、嬉しくて小躍りせんばかりでした。


藤江法子さん 乳ガン・リンパ転移
今年10月の「がん治っちゃったよ!全員集合!」では司会の大役も



◆やっと親に甘えることができた◆


実は、私の兄が社会生活にうまく馴染めない人で、そんな家庭にあって、「私までが家族に心配をかけるわけにはいかない」という思い込みを持つようになりました。早く自立して、親に心配をかけてはいけない、甘えてはいけない、という意識が強かったです。両親は共働きだったので、ご飯を炊く係は私でした。うっかりご飯を炊くのを忘れた日があって、帰宅した母親に「なんでご飯炊いてないの!」と怒られました。毎日やっているのに、たまたま忘れたら叱責された。兄はまったく手伝わないのに、いつもやってる私が何で怒られるの!?という理不尽な想いが、今でも蘇ります。

それでも進学にあたっては、自宅から通えて学費の負担が少ない高校、奨学金で賄える大学を選びました。迷惑をかけずに一人で生きていくことを信条として、行動してきました。DVを受けていたことは、いまだに両親に話していません。ガンのことを知らせたのも、自分で一通り整理をつけてからでした。ところが、やはり人間は一人で生きているのではないことを、思い知ることになったのです。体調が悪くて買い物にも行けない。そんな時に頼れるのは、やはり両親でした。自力で動くことがままならなくなったとき、はじめて実家に電話しました。父が電話に出て、私はうまく伝えられなかったのですが、察した父と母が来てくれました。親の顔を見た途端、父に抱きつき、今まで封印してきた思いを吐き出し、わんわん泣きました。大人になって、そんなふうに父にしがみついたのは、その時限りです。母は、何で私じゃないのと不満げでしたが。(笑)

そこから、年単位の歩みで(笑)、両親に甘えられるようになりました。母は当時を振り返って、私が病気について何も相談しなかったこと、そして親として援助できなかったことを恨めしく思っているようです。

半年に及ぶ壮絶な抗ガン剤治療の間には、名古屋駅で倒れて救急車で運ばれました。地下鉄で気持ち悪くなって、駅の医務室で休ませてもらったことも3回ありました。その後に待っていたのは、放射線治療でした。もうその頃は、ほんとフラフラでしたが、放射線科のドクターとも一悶着ありました。ホルモン剤は7年半服薬し、最後は私から服薬中止を申し出ました。ホルモン剤の副作用については、すでに体調不良だったので、あったかどうかわかりません。(笑) 一連の治療にまつわるドクターとのやり取りも、以前なら自分を押し殺して言いたい事を我慢したはずです。それが、ガンをきっかけに言えるようになりました。


◆二人の恩人◆

私が10年かけてガンを乗り越えることができたのは、2人の恩人の力があります。一人は主治医。一切ネガティブな情報は口に出さず見守ってくれるドクターで、とてもよい関係性でした。よいお医者さんに出会えたことは、ありがたかったです。もう一人は、杉浦貴之さんです。杉浦さんに出会ったことで、私はガラッと変わりました。とりわけ、杉浦さんの「大丈夫だよ」という歌で、気持ちがすごく楽になりました。彼の仲間(チーム・メッセンジャー)も温かい人ばかりで、私を無条件に受け入れてくれたことに感謝しています。ご承知のように杉浦さん自身も腎臓ガン体験者で、自分の経験をトーク&ライブで伝える活動をされています。杉浦さんのファンは多く、そのなかには病状思わしくない人もいます。その一人ひとりに最期まで寄り添う杉浦さんを、私は尊敬しています。ですから、私も自分が関わって出会ってきた人を、ずっと見守っていこうと心に誓っています。私が受けた恩を、次の人に恩送りしていきます。

杉浦さんはまた、「がんサバイバーホノルルマラソン」を主宰しています。早い段階で誘われてはいたのですが、なかなか決心がつかずにいました。なぜなら、私にとって仕事が大切だったので、1週間も続けて休んではいけない、周りにも迷惑がかかるからムリ、と決めつけていました。でも、何がきっかけだったか定かではなにのですが、ふと「行ってみよう」という気になったのです。それで、おそるおそる仕事のスケジュール管理者に、ホノルルマラソン出場のため12月に1週間休みたいと申し出ました。すると、呆気なく「いいですよ」と即答。それでまた、自分が勝手に思い込んでいた事に気づきました。「両親に迷惑かけてはいけない」「仕事を休んではいけない」「周りに迷惑をかけてはいけない」「しっかりするべきだ」「・・・いけない・・・するべき・・・いけない・・・するべき・・・」 最初のホノルルマラソンは4年前だったのですが、その頃からそれまで囚われていた「・・・いけない・・・するべき」が薄まっていきました。


藤江法子さん 乳ガン・リンパ転移

藤江法子さん 乳ガン・リンパ転移

藤江法子さん 乳ガン・リンパ転移
藤江さんは、毎年12月に行われる「がんサバイバーホノルルマラソン」のリーダーを務めています


*がんサバイバーホノルルマラソンの動画はこちらで視聴できます!

*杉浦貴之さんの公式サイト「命はやわじゃない」はこちら!




次の転機は、「第1回 がん治っちゃったよ!全員集合!名古屋」でした。2014年10月に初めて開催されたイベントに、スタッフとして参加しました。イベントの途中で、抗ガン剤治療中ながら参加された方が、気分が悪くなってしまいました。抗ガン剤治療を経験していたスタッフが私だけだったので、付き添っていました。ところが、ますます具合が悪くなっていくので、救急車を呼ぶことになりました。でもその方を一人で救急車に乗せるわけにいかず・・・今までの私なら「私が出しゃばってはいけない」「新参者がそんなことをしてはいけない」という思考になりましたが、その時は「私、行きます!」と救急車に乗り込みました。その出来事が、「出しゃばってはいけない」が消え、「思ったら行動する!」という私に変わった瞬間でした。戻ってきたら、すべて公演は終わっていました。(笑)

これには、後日談があります。救急車で付き添った方と後々お会いする機会があり、その方も、「息子に迷惑かけてはいけない」「つらいけれど口に出してはいけない」という思考だったのが、それを機に息子さんに全部話せるようになったそうです。その方は気分が悪くなったとき、私に迷惑かけてしまったと思われたことでしょうが、実は私が生まれ変わるきっかけを与えてくれたのです。世の中、迷惑かけてはいけないと思っている人は少なくないと思います。ところが、迷惑と思える事が人助けになったりもする。世の中、持ちつ持たれつです。


◆自分が変わることで動き出す!◆

ホノルルマラソンの話に戻りますが、走っているときって、“生きてる感”が満ち溢れるんです。そしてゴールの瞬間は、《歓喜》なんです。(杉浦さんのメルマガに書いてありました(笑)) ただの喜びではなく、歓喜。人生でそうそう経験することのない、命がほとばしる瞬間です。

こんなふうに、一年一年、いろんな体験を経て自分が変わっていくと、それに応じた現象がやってきます。生バンドで歌う機会が訪れました。でも私は、人前で歌うなんてとんでもない、絶対できないと思っていました。鬱になる前はふつうにカラオケで歌っていましたが、鬱になって以降カラオケすらずっと避けていました。

でもそういうお誘いを受けて、「人様にこんな下手な歌を聞かせるわけにはいかない」という殻を打ち破ってみようという気になりました。それで、埼玉と名古屋でチャレンジしました。名古屋は杉浦さんの前座として、ライブハウスで歌ったのですが、それはもう楽しかった! その時の写真は、一生の宝物です。

藤江法子さん 乳ガン・リンパ転移
ライブハウスにて出演者の仲間と


今日のお話会にお呼びいただいたのもそうですが、何か自分が変わることによって動き出すのですね。これもご縁でしょうが、朝日新聞にがんサバイバー・ホノルルマラソンの取材を受け、その記事がちょうど今日の夕刊の愛知県版に掲載されます。よかったら、お読み下さい。(笑)

最後に、私が講師を務めているクラスの受講生に向けて語りかけている言葉を披露させてください。

「私は、10年前にある病気をしました。その病気の治療はとてもつらかったです。毎日、寝込んでいました。そして、自分を否定していました。こんな私に何百万も医療費がかかる・・・私ではなく誰かにそのお金を差し上げたいと思いました。そんなふうに、自分を否定ばかりしていました。死ぬことばかり考えていました。私なんか、死んでしまえばいいと思っていました。

それで、窓から飛び降りようともしたのですが、飛び降りる力さえありませんでした。ただ私のマンションは1階で、落ちても痛いだけ、私の車が凹むだけです(笑)

私が死んだら社会にとって有益とまで思っていましたが、ハッと気づいたことがあります。それは、死んだら、今まで出会ってきた学生さんに二度と会えなくなる。それは嫌だ。そして、これから出会えるだろう学生さんとも会えなくなる。それに気づいて、スイッチが入りました。私は、これから出会う学生さんに会いたいと思いました。その時、出会いたいと望んだ学生さんが、皆さんです。皆さんが、10年前の私の命を助けてくれたのです。命とは、そういうものだと思います。10年前、私の命を救ってくれて、ありがとうございます」

ご静聴ありがとうございました。


◆NPO法人いずみの会 公式サイトはこちら!




【編集長感想】

講話の最後を締めくくった学生さん向けの語りは、術後3年くらいから始めたそうです。藤江さんの場合、仕事が生きる支え、つらい治療を乗り越える原動力になったのですね。仕事という場と時間が、唯一、自分を認め肯定できるゾーンだった、自分を守ることができる最後の砦だった、と言えるかもしれません。

ガンが発覚した時の心境をお伺いしたところ、働けるのか? 生活できるのか? 食べていけるのか? 家賃払えるのか?・・・生き死により、生活大丈夫か? フリーランスなので保証がない。自分が働かないと収入が途絶える。一人暮らしということもあり、生活の先行きに意識が向いたとお答えになられました。死に関しては、散々、鬱で死の淵をうろついたので、逆に、ガンと死の関係は希薄だったようです。

藤江さんは、術後10年を機に主治医から経過観察終了を告げられ、めでたく病院通いを卒業されました。祝!!


藤江法子さん愛称「さくらちゃん」の由来
桜の花ではなく、樹のように生きたいと思った。夏は葉を繁らせ木陰をつくって癒してくれ、秋は葉を染め楽しませてくれる、冬はひたすら耐え、そして1年かけて春に見事な花を咲かせる。そんな桜の生き様に魅せられて「さくら」を名乗るようになりました。










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