再発・転移・進行・末期のガン対策

ガン体験者との対談

涌井郁子さん 乳ガン(両側性)

ガンになって、変えたかった自分を変えることができた!
2019年7月 いずみの会「おしゃべりサロン」にて

涌井郁子さん 乳ガン(両側性)
参加者を前に体験談を語る涌井さん



◆両胸にガンが見つかる◆

はじめまして。愛知県岡崎市から参りました、涌井郁子です。どうぞよろしくお願いします。

今からちょうど5年前、2014年の夏に乳ガンが見つかりました。左胸のしこりに気が付いて乳腺クリニックで診てもらったところ、なんと左右両方の乳房にがんがあることが判りました。受診したクリニックで手術するか?それとも他の医療機関で受けるか?など今後のことを決めるため、一度家に持ち帰って家族と相談することにしました。

知人に乳ガン経験者がいたので、その方にも相談しました。彼女の勧めで、彼女の手術を執刀したドクターにセカンドオピニオンを求めました。やはり、腫瘍のある場所、広がり具合からして、両乳房の全摘は免れないという見解でした。

私は乳ガンと子宮ガンにはなりたくないと思って、30歳過ぎから毎年検診を受けてきたにもかかわらず、ガンを引き寄せてしまった・・・それでも体の内部ではなく比較的表面の部位だから、切除してしまえば事は済むと考えるようにしました。

摘出した組織の病理検査をしたところ、左右のガンのタイプがちがっていて、悪性度および再発リスクの高い方を基準に治療を追加することになりました。ホルモンは陰性のため、抗ガン剤治療を4回×2クールの後、1年間の分子標的薬というプロトコールでした。当時はガン治療に関する知識を持ち合わせていなかったので、何のためらいもなく治療を受けました。

ただ、手術前にあるきっかけで知った兵庫県の臨床技師さんとコンタクトを取りました。その方は東京出張の際に名古屋に寄ってくださり、お会いすることができました。その方は開口一番、「心を解放しましょうね」と言われました。その時、夫も同伴してくれていて、「ストレスの原因が旦那さんにあるってことありますよね?」とその方が夫に向かって問いました。すると夫が躊躇なく、「はい、そう思います!」と答えました。私は夫のその言葉を聞いて、ふっと肩の力が抜けた感覚を、今でも鮮明に覚えています。

とはいえ、夫に支配的にされてきたという訳ではありません。世間一般的な評価に違わず、家族によくしてくれています。それよりは、ガンが私自身に対し「これまでの生き方を見直さなくていいのか?」と問うてきたのだと思います。  

「でも」「けど」「たら」「だって」「のに」「くれない」

私は、こういったワードを多用して生きてきました。うまくいかないことは人のせい・・・「こんなに頑張っているのに」「~だったら」「そうは言うけど」・・・自分でも自覚はしているのですが、止めること、変えることができなかった。実はガンになる前から、自分の「思考のクセ」を見直すセミナーや学びの場に足繁く通っていました。受講中は合点しその気になるものの、帰宅すれば同じ環境の下で慣れ親しんだ思考のクセをまた戻ることを繰り返していました。

じゃ、その思考のクセを形成した大元は何だろう・・・?


涌井郁子さん 乳ガン(両側性)
杉浦貴之さんのイベント、がん治っちゃったよ!全員集合!の運営には、今や欠かせない存在の涌井さん(イベントのパフォーマンスとしてウイッグ装着しているお姿)



◆子供時代の思い込み◆

私は、三重県の田舎で生まれ、曾祖母、祖父母、両親、妹、弟、私という大家族の中で育ちました。正月、盆、彼岸には長男である父の兄弟、祖父の兄弟が家族を連れて押しかけます。親族をもてなすため、1週間前から掃除、料理に家族一同大わらわ。当然、私も手伝わなければなりません。その中で、両親と祖父母のいさかいの場面を数多く目撃し、子供ながらに「自分がいい子でお手伝いしたら家族は仲良くなる」「自分がお手伝いを頑張れば大人同士の嫌な争いを見なくて済む」という信じ込みを自らの内に作り上げたのだろうと思います。

その信じ込みに基づいていっぱい手伝うのですが、親戚が集まったときは、「あなたはあっちでご飯を食べなさい」と言われ、ご馳走を囲んでいる身内がすごく羨ましく思えました。「あんなに頑張って手伝ったのに、私はこんな扱いをされるのだ」という“悲しみ”の感情が湧きました。でもその悲しんでいる姿を見せると、また家族のいさかいを引き起こしてしまうのではないかと怖れ、「いい子」を一生懸命演じてきた気がします。

ですから、普段から人目が気になって仕方ありません。「こうしたい」「こう考えている」という自分を抑え込んで、人が嫌な顔をしていないかに敏感になって、人の機嫌が悪くないことを自分の喜びとして生きるようになりました。ただし記憶を辿ると、全てにおいて疎ましくされたわけではなく、父は仕事の合間を縫っていろんな所に連れていってもくれました。だから、決して不幸ではなかったのだろうと思います。ただ、自分の素直な気持ちを、自分で無理矢理ねじ曲げて胸の内に押し込むクセを身に付けてしまった。結婚して3人の子供を産んでからも、そういう自分を変えることなく生活してきました。

一方、夫は5人兄弟の末っ子。兄や姉から可愛がられて育ったので、私とは対照的に自分の出し方が上手です。こんな人と一緒に暮らしていれば、私もそうなれるのじゃないか!?と人頼みのところがありました。自ら変わろうとしないので、必然使い慣れた思考パターンを持ち出し、悶々とします。そんな私を見て夫は、事ある度に「もっと気楽にしたら」とアドバイスをしてくれるのですが、私は「そうはいっても、そうできたらこんな苦労はしない」と口にしていました。(笑)

そんな私を知っている夫は、私がガンと診断されたとき、ガンそのものではなくガンと告げられた私がどこまで落ち込んでいくか心配だった。そんなふうに気持ちが落ち込んだ人を、どう支えていけばいいかが不安で怖かったと後に述懐していました。

ガンが見つかったのが52歳。30年以上も生きづらい思考のクセを放置してきたのに、ガンになって変わるきっかけができました。何が変わったのか、はっきり説明するのは難しいのですが、それまで専業主婦として家事と子育で家に密着する生活では持てなかった、自分だけの時間を得ることができました。病気治療とはいえ日常から離れ、今までの自分を振り返る時間になりました。

手術や術後の後遺症について主治医に訊いたところ、手術の腕に自信があるらしく、術後のリンパ浮腫の確率は1%と断言されたので、不安なく手術に臨めました。術後2日目には、自分の判断でおそるおそる腕を上げてみたところ、とくに違和感はありませんでした。自分の体が治る方向に向かっていることを体感しました。


◆メッセンジャーと仲間との出会い◆

退院から2日経って、気晴らしに近所のカフェ「はなのき村」に行きました。オーナーの井上昌子さんとも久しぶりに会い、乳ガン手術のことを話すと、これにいいことが書いてあると『メッセンジャー』という雑誌を手渡されました。開かれたページには、発行者の杉浦さんと畑地美妃先生の対談記事が載っていました。対談では二つの事例が紹介されていました。

一つは、患者さんが意気揚々と主治医に秋田の玉川温泉に行く旨を告げたところ、「それを最後の旅行にしてくださいね」という主治医の一言がショックだったのか、2日後に容体が急変して亡くなってしまった。もう一つは、高齢の肝臓がんの男性の例です。その男性の奥さんが、診察の度によくなくても「良くなっている」と本人を励ましてほしいと畑地先生に懇願された。先生はその通りにし、奥さんは「これを食べたら良くなる」と言いながら、キャベツの千切りを来る日も来る日も食べ続けさせた。すると半年後に、ガンは消えていた。これを読んで、自分に置き換えてみました。過去の自分だったら、間違いなく前者だな。でもなぜかその時の私は、「これ、すごい!」と思えたのです。自分の心の在り方、周りの人の意識や言葉で、人間の状態は変わっていく! なにか目が覚めた感じでした。それで、メッセンジャーのバックナンバーをお借りして目を通しました。そして、そこに載っている人たちと会い、自分も元気になって行きたいと思いました。

はなのき村には、メッセンジャーのメンバーが集います。はなのき村に寄ると「ホノルルマラソンいいわよ~」(杉浦さん主宰のがんサバイバーホノルルマラソン)と囁かれ続けていました。(笑) でも、費用も掛かることだし、今はまだ抗ガン剤治療もしてるから・・・。そこで私はふと考えました。「ちょっと待てよ。過去の私なら間違いなく行くことなんて考えもしなかった。でももし、今までの私とまったく逆の選択をしたらどうなるだろう?」私の中で、ホノルルツアー参加の夢が芽生えました。そんな私にメッセンジャーの仲間が、「500円貯金すればすぐにではなくても行けるわよ」と励まされ、専業主婦で収入がなくても何とか叶いそうだと、500円貯金を密かに始めました。

2015年1月、はなのき村で催される杉浦さんのトーク&ライブに参加する直前、夫にメッセンジャーの仲間とホノルルマラソンに行きたいと打ち明けました。それを聞いた夫は、「そういうのって、一緒に行こうと(俺を)誘わないのか!?」と言うのです。それなので、私がどんな想いでホノルルマラソン行を決意したかを知ってもらうために、夫をトーク&ライブに連れて行きました。

会場には、年末にホノルルに行ってきた人達がいらして、初対面でもとてもフレンドリーに接してくれました。それが本当に嬉しかったです。私もこの仲間に加わりたい!と心底思いました。そんな雰囲気のなかで、夫が私に「ホノルルにはいつ行くんだ?」と聞きました。私が「2~3年後かな・・・お金貯めないといけないし、、、」と答えると、「そんな2~3年後なんていってたら行く気が薄れるから、行くなら次だ!」と背中を押され、「今年、ホノルルに行きます!」と皆の前で宣言しました。今までなら、言っちゃったことに後悔することが多かった私ですが、その時ばかりは「行くんだ!」という強い気持ちが湧いてきました。

それ以降、都合がつく限りメッセンジャーの仲間の行事や誕生会など、極力参加しました。2015年のスケジュール帳には、予定がびっしり書き込まれました。

些細なコンプレックスから人目を気にしながら生きてきた私は、誰からも“名前”ではなく、いつも姓で呼ばれる存在でした。その事も、私の心に引っ掛かっていました。「私って、人から嫌われているのかしら?」と思いながらも、「名前で呼んで!」とは口に出せなかった。ところが、メッセンジャーのメンバーの一人が初めて「郁ちゃん」と呼んでくれた。いま振り返ると、しょうもないことなのですが、私にとっては大きな出来事でした。(笑)とにかく嬉しくて、その人とは大の仲良しになりました。

家族や仲間に支えられ、年末のホノルルマラソンの頃にはすっかり元気になり、通院して分子標的薬を投与しているものの自分がガン患者であることを忘れるようになっていました。

さてホノルルマラソンですが、5キロ以上走ったことのない私が42.195キロという未知の挑戦に加え、膝の痛みを抱えていたので10キロ過ぎからは歩きでしたが、もう必死でゴールしました。夫がずっと伴走してくれたのですが、「もっと楽しく話しながら行こうよ」との声掛けにイラついて(笑)、「放っといて!」と途中で喧嘩もしました。でも以前の私なら「放っといて!」なんて言い返せなかったなぁ、そう言える自分に○をあげようと心の中で呟く場面もありながらの完走でした。


涌井郁子さん 乳ガン(両側性)
途中喧嘩もしたけど(笑)ご主人と一緒に完走!



◆仲間の夢を叶えるお手伝いをしたい!◆

日々の生活では、取り立てて「○○療法」をルーティンに実践したということはありませんでした。冷えや食べ物も“気にする”程度。それより私の場合は、心が大きく変化しました。

いま私が思っていることは、自分が先頭に立って旗振りはできませんが、側でお手伝いしたり、自分が元気に生きていることが誰かの希望になったらいいな、ということです。メッセンジャー関連のイベントの受付として、初めての方と電話やメールでやり取りする際、まずは安心感を持ってもらうよう、声のトーンを上げ下げせずフラットにすることを心がけています。

ホノルルマラソンが「チーム メッセンジャー」の代名詞のようになっていますが、ホノルルマラソンに参加しなくとも、メンバーの中には自分にとっての夢を叶えていく人もいます。それぞれの人にとって、自分なりのホノルルマラソンのような夢が、人とのご縁や繋がりのなかで見つけられるといいな。そして、自分の人生を進めていけるといいな。そう思っています。

ご清聴ありがとうございました。


涌井郁子さん 乳ガン(両側性)
チーム・メッセンジャーのお仲間と



【質疑応答(一部抜粋)】

Q:なぜ名前で呼ばれることにこだわったのか?

涌井さん
私は「美」の付く名前に憧れがありました。その裏返しとして、自分の名前(郁子)が好きではなかったのかもしれません。祖父母としては、男の子の初孫を望んでいたのだと思います。私はそんな雰囲気を察してしまったのか、子供心に「女の子で生まれて祖父母を落胆させた」と思っていた時期がありました。そんな思い込みが、祖父母から遠ざかる振る舞いをさせていたようです。一方、妹は可愛がられ、さらに弟が誕生すると、祖父母の弟の扱いがまったくちがう。それを見た私は、先の思い込みが強化されてしまったように思います。


Q:食事のことはあまり気にしなかったのはなぜですか?

涌井さん
家族みんな一緒の食事をしたかったからです。私だけ特別な食事となると、ガンであることを私自身も家族も意識してしまう。それは嫌でした。もし、○○療法的な食事をするなら、家族全員同じ物を作ります。でも、ガンがどうなるかではなく、体に良いから野菜中心にするという自分が主体となる基準での食事を考えたら、あまり厳格な制限食にはなりませんでした。


Q:ガンと診断された時の心境は?

涌井さん
実は、もっとショックを受けるかと思いました。でも意外と、「あ、そうなんだ」という感じでした。というのは、当時から遡って7年前、私より15歳年上ながら厚い親交のあった方が乳ガンになって、5年生存率が20%と診断されました。その方が、「20%しかないと思ったら不安になるけど、(ガンに)なっちゃったのはしょうがないから、20%に入ればよいと思ったのよ」と言っていたのです。術後に抗ガン剤治療もされましたが、半年後にはすごく元気になられた。それが、私が知っている唯一の乳ガン経験者でした。なので、私にとって「乳ガンは切ったら治る」という前提ができていたからか、さほどショックではなかったのかもしれません。

それから、私の父は15年ほど前に食道ガンを患いました。当時はまだ父の母(涌井さんの祖母)が存命で、父は闘病しながらも「親より先に死ねない」という強い思いを持っていました。手術不適用でしたが、放射線とステントで寛解しました。その後、冬に祖母が老衰で亡くなると、夏にガンが再発し、11月に父は他界しました。これは私の憶測ですが、「何が何でも生きなきゃ!」という意識が父から無くなったのだと思います。「強い思いで人は変わる、病も変わる」父の病から学んだことでした。

先を心配し、過去を悔いる生き方を変えたいともがいていた私に、神様がガンという浮き輪を投げ入れてくれたのだと思います。


◆ガン患者会 NPO法人いずみの会 公式サイトはこちら!

◆杉浦貴之さんの公式サイトはこちら!

◆がん治っちゃったよ!全員集合!のブログはこちら!



【編集長感想】

涌井さんは、ガンになるずっと前から自分を変えることを望んでいた。初めて知りました。だって、今の涌井さんからは想像できませんから。

人間は誰しも、一生をかけて成長していくようプログラムされた生き物なのですね。それを後押しするものとして、一見理不尽なような出来事が与えられることもある。それを涌井さんは「浮き輪」と解釈した。素晴らしいです。








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