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再発・転移・進行・末期のガン対策

ガン体験者との対談

祢冝田(ねぎた)満代さん 多重がん(悪性リンパ腫再々発、甲状腺がん)

がんをきっかけに自分の軸で生きることにした!
2020年11月 いずみの会オンライン「体験談&交流会」にて 

祢冝田(ねぎた)満代さん 多重がん(悪性リンパ腫再々発、甲状腺がん)
祢宜田満代さん



◆子どもたちに伝えるのが怖かった◆

こんにちは。祢冝田満代です。お話するのは不慣れですが、宜しくお願いします。簡単に自己紹介します。昭和48年生まれの47歳。家族は夫と子どもが4人います。上から21歳、19歳、18歳、11歳です。

悪性リンパ腫が見つかったのが2015年2月で、当時は中学3年、中学2年、小学6年、年少でした。病名を告げられ、いちばん悩んだのが、子どもたちにどう伝えようか?でした。私は「子どもたちが可哀想」と思ったのですが、夫は「子どもはお母さんを選んで生まれてくる。だからきっと耐えられる」と言ってくれました。でも伝えるのが怖かったです。

4歳の末っ子には、病名は知らせず3ヶ月入院してくると話しました。いちばん上の子は高校受験目前だったので迷いましたが、主治医と相談して隠すことなく事実をちゃんと伝えました。2番目と3番目の子も同様にしました。上の子の反応は「死んじゃうの!?」 2番目は「まあ、大丈夫でしょう」 3番目の子は何も喋らなくなってしまいました。この子のケアには気を使いました。4番目は保育園で泣かなくなり、次に喋らなくなり、最後には笑わなくなりました。入院とはいえ、母親が居なくなることが悲しかったようです。


祢冝田(ねぎた)満代さん 多重がん(悪性リンパ腫再々発、甲状腺がん)
オンラインで体験談を語ってくださいました



◆青天の霹靂◆

では、病気の経過をお話します。体の不調を感じたのは2014年の6月でした。股関節にしこりができました。病院で検査をするとガングリオン(関節や腱鞘の滑液が濃縮されゼリー状になった腫瘤)という診断でした。そのままにしていましたが、やっぱり気になる。9月に再検査しました。生検の結果はやはりガングリオンでした。2度目も同じ診断で安心したのと当時は父の看病真最中で、しばらく病院から足が遠のき、次の診察は翌年(2015年)1月末でした。この時初めて、悪性リンパ腫の「びまん性大細胞型B細胞リンパ腫 ステージ3」という病名を告げられました。

診察が終わったらランチを予定していたのに、まさか、ドクターの口からそんな耳慣れない病名を聞かされるとは思ってもいませんでした。診察した外科のドクターが内科の医師に連絡しているのが待合室で聞こえましたが、「悪性リンパ腫」という病名に「癌」という字がないこともあって、自分が「がん」に罹った現実感がありませんでした。

しかし内科に行くと、ドクターに「血液のがん」と言われました。その日のうちに夫が呼び出されドクターから説明を受けました。私のリンパ腫は月単位で進行する中悪性度のタイプで時間的余裕がない。2週間後に入院する段取りになりました。

入院までの2週間にやっておかなければならないことが山盛りでした。子どもたちに伝えること、卒業・入学・受験の準備、3ヶ月間の子どもたちの世話の手配・・・「(血液の)がん=死」を連想したので、家の中の整頓、保険の証書や銀行通帳の整理などなど。火事場のバカ力的集中力でこなしました。


◆心が折れる◆

入院しての治療は、R-CHOP療法(多剤抗がん剤+プレドニゾロン+モノクローナル抗体併用)です。初回投与は朝の10時に始まって、終わったのが夜中の12時でした。血圧や心拍などを観察しながら14時間かかりました。これほど大変な治療とは想像していなかったので、正直、1回目で心が折れました。

3回目の治療で数値が改善し、いったん帰宅となりました。子どもの卒業式と入学式に臨むつもりで一時退院しましたが、ちょうど副作用で髪が抜け落ち始めました。脱毛の心づもりはしていましたが、やはりショックでした。「人から可哀想と思われるにちがいない、それは嫌だ」と勝手に自分で決めつけ、そこから引き籠もるようになりました。鬱になっていたのだと思います。結局、卒業式も入学式も夫に任せて、私はずっと家に居ました。

末っ子の保育園の送迎も一切しなかったので、噂が立ちました。離婚したのじゃないかとか、一部の人にがん治療のことが知れると亡くなったのではないか・・・そんな世間の声を小耳に挟んでも、4~5ヶ月の間は一歩も外に出ませんでした。

周囲の「大丈夫」という言葉は棘となって刺さり、「がんばってね」と言われるのはもっと胸をえぐられました。

大丈夫じゃないのに大丈夫なんて言わないで!
がんばってるのに、これ以上どうがんばれっていうの!

そんな心の状態でした。でもその気持ちを人にぶつける勇気がなかった。子どものことを思い遣る余裕さえ失っていました。家に居ても、しゃべらない、笑わない。自分のことで精一杯でした。


◆がんセンターでの衝撃◆

治療は2015年8月まで続きました。CTで治療の効果判定をすると「寛解」。私は逃げるように退院しました。二度と御免だと思いました。経過観察の通院はするが、とにかく病院には近づかない!患部を見たり触ったりするのもしない!そんな決意でいました。寛解と言われたことで治った気になり、少し気持ちに余裕が生まれました。子どもの行事にも参加するようになりました。

ある日、子どものサッカー観戦中に暑さで倒れてしまいました。通報で駆けつけた救急隊員に運ばれるとき、はずみでカツラが外れてしまいました。子どもの世話など助けてもらうこともあるだろうと思い、その出来事をきっかけにママ友たちに病気のことを打ち明けました。

ところが、1年2ヶ月経って再発しました。経過観察では問題なしでしたが、股関節のしこりに気づいてドクターに申し出ました。生検の結果再発でした。それを聞いて、私は診察室で誰の目も憚らず大声で泣きました。そして、ドクターに「8回も抗がん剤やったのに、なんで再発するの!」と泣きながら訴えました。嫌で嫌で仕方なかった抗がん剤治療を、夫に「子どものためにも受けてくれ」と頼まれたから辛い思いをしながら受けた。それなのに再発した。夫に憤懣をぶちまけました。「あなたたちがこうしたから再発した」すべて人のせいにして、関わってくれた人たちを傷つけました。

ドクターからは、私のタイプの悪性リンパ腫は再発したら次は移植と言われていました。通っていた市民病院では移植ができないので、自ら希望してがんセンターに転院しました。でもそこで衝撃的な事が待っていました。市民病院では、がん患者さんにほぼ出会いませんでした。2人に1人がんになるという時代ながら、私の身近にもがんの人はいませんでした。それもあって、「何で私だけが、がん!?」がもはや被害妄想レベルでした。挙げ句の果てに再発してがんセンター・・・。

そのがんセンターでたまたま隣り合わせた男性に声を掛けられました。

「どこが悪いの?」
「がんなんです」
「知ってます。ここは、がんセンターなので、全員がんです」

がんの人がたくさんいるのが、すごく嬉しかった。

「私は血液のがんです」
「血液のがんの何?」

さらに衝撃を受けました。それまで、「悪性リンパ腫」「びまん性」という用語を理解してくれる人はいなかった。私の病気について共有できる人たちが、ここにはいる。抗がん剤の辛さも知っているし、カツラを着けている人もいっぱいいる。この時点から、私の病気への向き合い方が少しずつ変わり出しました。


◆まさかの・・・◆

がんセンターでは、移植を前提とした検査と抗がん剤を早速始めました。3日に分けて1日1~2時間の投与。吐き気などの副作用には迅速に対処してもらえました。ドクターに自分の症状を訴えていいことを、このとき学びました。「大丈夫!」という声掛けも、同じがん患者さんからのものなので素直に受け入れることができました。前の病院では感じられなかった安心感があったので、治療への拒否感はあまりなかったです。

今度の抗がん剤は、白血球が極度に減少するので無菌環境下での投与になりました。3回目の頃、主治医が「もしかしたら病名がちがうのではないか」と言い出しました。私は、どーゆーこと!? 訝しく思いましたが、たしかに私自身、病気と認めたくなく、ちゃんと病気と向き合うことを避けてきました。調べたのは5年生存率だけ。自分の体の中で起きていることなのに、悪性リンパ腫の種類、治療法などからは目を反らし、見るものといえば同病者のブログ、しかも悪い記事ばかりを選んで、「私もこうなっちゃうんだ」と負のイメージ集めをしていました。

診断が違えば治療法も異なるわけで、移植が適用となる速い進行のタイプではなく低悪性かもしれないと主治医が推測し出したのです。低悪性のタイプが進行が速くなることはあっても、高悪性や中悪性のタイプが悪性度が低くなる例はないので、元々の診断が違っていたのではないかということでした。なので、すぐさま移植はせずに様子を見て、再発したら生検して調べることを提案されました。

良い提案でしたが、良いことには必ず裏に悪いことが付いているものです。それは、もし当初の診断が正しかったら、復活してきたがんは更に進行が速くなっているかもしれないリスクでした。それを聞いて動揺しました。1週間後に返答することにしました。

この間、主治医が前の病院に私の標本(細胞診のため採取した検体)を見せてほしいとリクエストをしたところ、私が署名した誓約書を理由に断られていました。病院に保有権があるということなのだろうか・・・。主治医は、患者である私からリクエストを出してみることを勧めました。入院中なので電話で問い合わせたところ、やはり断られました。すると、前の病院に対し泥のような不信感が湧いてきました。骨髄穿刺のやり方も間違っていたくせに・・・そうだ、あれも、これも・・・裁判沙汰にでもしてやろうか。(怒)

退院後、意を決して直談判に行きました。それでも拒否されました。そこから猛烈に調べました。何とか標本を取り戻す手立てはないか!? ネットでヒットしたのが愛知県医療安全支援センター。そこに事情を相談しました。ところがなんと、医療安全支援センターが介入したら前の病院はすんなりと標本を出したのです。

私は前の病院の診療カルテも開示を請求し調べ直しました。そこには病理からの再検査リクエストが記載されていました。理由は、検体の細胞数が少なくて診断が確定できないということでした。ところが、その病理からの報告が外科の主治医に伝わっていなかった。なんと院内の連携の不手際で、再検査リクエストが宙に浮いたままになっていたのです。ですから、細胞数不足による検体不適正で標本がなかったのです。担当者から謝罪の言葉がありましたが、納得がいきませんでした。恨みました。(恨)


◆私はどうしたいのか?◆

その後の成り行きについて愛知県医療安全支援センターから問い合わせがあったとき、悶々とした感情のまま事の次第を話しました。その時、担当者から「あなたは治療をする前に、自分の病気のことをちゃんと調べましたか? あなたは受け身だけで治療している。書類も全部目を通してサインしましたか?」と言われました。私は読まずにただサインしただけでした。「あなたにも非があります」はっきり言われました。

目が覚めました。告知されてからずっと、人のせいにして生きてきた。がんになったのも人のせい。治療もやれと言われたからやった。再発したのも人のせい。気持ちを切り替えなければ!と思いました。

「いま、私はどうしたいのか?」

自分だけで答えを出せなかったので、がんセンターの主治医に相談に行きました。今回は答えを授かるためではなく、自分で答えを出すための相談です。移植はやりたくない。治療をしないことで想定される最悪の事態についても主治医にしっかり聞いて、治療をせずにがんがまた出てくるのを待って再度細胞診をすることにしました。私のがんは抗がん剤が効くようで、いったんは消えます。ただまた復活してきます。2ヶ月後に細胞を採取しました。しかし、やはりがん細胞が少なくて病名を確定するには至りませんでした。主治医に、もう腹を括って自分で決めるしかないと言われました。

移植をしないとなると、選択肢は抗がん剤もしくは放射線の二つです。私は放射線を選びました。もし再発しても自分で責任を負う。誰のせいでもない。私は治る。そう自分に言い聞かせました。そして、どうせ病院に行くなら、楽しく行こう。放射線治療の1ヶ月間は待合室にいる患者さんに声を掛けまくりました。(笑)お友達をたくさんつくってランチに行ったりしました。


◆甲状腺がんと後遺症◆

放射線治療から3ヶ月後、PET検診で股関節のがんは寛解していました。でも首に光っている箇所がある。私はもう「がん」に慣れてきていたので、さほど驚きもせず「再発ですか?」と主治医に尋ねました。主治医は「悪性リンパ腫か甲状腺がんか確定できない」ということで、頭頸部科で診てもらうことになりました。首のしこりを生検したところ、甲状腺がん(原発)でした。ショックというよりは、「甲状腺もがんなんだ」と笑うしかありませんでした。これ以上抗がん剤はイヤと思っていましたが、ドクターから切除すれば大丈夫と言われ、ちょっとホッとしました。

この時はまだ体からがんを抹消したい気持ちが強かったので、すぐに手術の予約をしようとしたら半年先でした。ドクターに甲状腺がんは慌てなくてもよいと言われましたが、キャンセル待ちを申し込みました。幸運なことに1週間後にキャンセルが出て手術をしました。悪性リンパ腫の既往歴があったので、通常より広範囲に甲状腺の8割が切除されました。私は取れるものは取ってもらっていいと思っていましたが、そこからが大変でした。甲状腺ホルモンの分泌不足で甲状腺機能低下症となり、浮腫、体重増加、だるさ、倦怠感などが出てきました。ドクターはがんが無くなって治療は完了という感じでしたが、私は体の不調に悩まされました。リンパ浮腫で首がパンパンに腫れ、その影響で呼吸が浅くなり、肩が凝り、頭痛にもなりました。筋肉を緩める薬、睡眠導入剤などで、1年間は薬漬けの生活でした。ただ当時40代前半だったので、残りの甲状腺からホルモン分泌が回復する可能性があるからと甲状腺ホルモン補充剤は処方されませんでした。

病院で不調を訴えても改善しないので、自力で何とかするしかないと思いました。人参ジュースをたくさん飲んで腎臓を悪くし怒られました。いろんな情報にアクセスしてトライするなかで、ヨガに出会いました。ヨガで体を動かすと、浮腫が少しよくなりました。それが転機になりました。

当初、がんをひた隠しにしていた私でしたが、がんセンター転院後は「私はがんです」が自己紹介の必須アイテムになっていました。「可哀想に思ってもらいたい」「特別扱いして」という下心があったからだと思います。また「明日の約束はできるけど、1年後の約束はできない」というルールも自分に課していました。再発の不安が無意識にそんなルールを作らせていたのだと思います。そんなルールは要らないなと気づきました。先回りして心配しなくていい。再発したらその時に考えればいい。そう考えるようにしました。入院したときに振込まれた保険金を次回の治療資金として蓄えていましたが、友人から「治療したくて置いてあるんだ」と言われ、ハッとしました。次の治療に備える意識でいたら、その通りになるんじゃないか・・・そのマインドを変えよう!

祢冝田(ねぎた)満代さん 多重がん(悪性リンパ腫再々発、甲状腺がん)
ヨガと出会う



◆治すのも生きるのも私のオリジナルで!◆

お金は、自然療法の本を読み漁って選んだアロマ、ヨガ、足裏健康法などに注ぎ込みました。何度も標準治療をしてきたのに、その度にがんが再び立ち上がってきた。ならば、標準治療以外の方法で健康になろう。ただ、既存の確立されたメソッドでよくならなかったら、また人のせいにするだろう。だったら、いいとこ取りでも自分のオリジナルの健康法を編みだすことにしました。

そんななか、股関節に再々発が見つかりました。抗がん剤もしくはいくつかの治験が治療の選択肢として提示されました。私はがんになって初めて、主治医が提案するどの薬物治療にも首を横に振りました。そして自分の望みを余すことなく伝えました。「髪の毛が抜けるのも、苦しい思いをするのも、嫌です。治療したくありません。ただし治療しないのは未来永劫ではなく、これ以上放っておけないというギリギリまでです」 主治医は、なんと3時間診察室で話し合いに応じてくれました。とても感謝しています。

抗がん剤はしたくないが、放射線治療は受けてもよいと思っていました。私の場合、すでに最大量の半分を照射しているので難しいと言われました。納得がいかなかったので、翌日、主治医が紹介してくれた放射線科のドクターから意見を聞きました。「あなたは命を取りますか?脚を取りますか?」と聞かれました。「放射線をマックス照射すると動脈を潰してしまう。今より酷いリンパ浮腫になる。その覚悟があるなら、放射線治療します」と説明されました。結局、放射線治療もやめました。主治医のところに戻ると、エントリー期間が間近に迫った治験の提案がありましたが、それも断りました。当然、どうしたいんだ?ということになり、私はアロマ、精神論、ヨガ、リンパマッサージに取り組んでみたいと申し出ました。主治医は、3ヶ月に1回CT検査をするという条件で認めてくれました。

それからは、セルフトリートメントに励みました。ハーブティ、3種のエッセンシャルオイルを足裏に塗る、自律神経に働きかけるヨガ、朝陽を浴びる。これを5ヶ月ほど続けました。この間、がんは同じサイズを維持したままでした。主治医もこの状態なら進行しないかもしれないから、しばらく様子を見ようということになりました。それからまた半年、セルフトリートメントを楽しみながら日課としました。検査も楽しみになりました。その後も大きさは変わらず、元気に生活もできました。ならば、がんを徹底的にやっつけなくても、共存でもいいという心境に切り替わってきました。そこからは、体にいいと聞くと何でもやってみました。

通っていたヨガの学校でインストラクターの認定を受けたことで、死ぬまでにヨガを人に教えてみたいという夢が湧いてきました。紹介してもらった乳がん経験のあるヨガインストラクターさんには、「できなくなったことを嘆くのではなく、やれることを見つけてやったほうがいい」とアドバイスをもらいました。ヨガを教えることを筆頭に、死ぬまでにやりたいことを「100ノート」に書き出し、会いたいと思った人には全員会いに行きました。市役所やお寺などに「ヨガを教えたいんです」とヨガ教室開催の打診に奔走もしました。ダメ元でチャレンジすることに抵抗がなくなりました。

現在、残っているがんは落ち着いていますが、今年の9月に大腿骨壊死症と診断されました。悪性リンパ腫の手術で癒着を起こしている部位なので外科的治療が難しい。そこで股関節の負担を減らすためにローフードビーガン食にして3kg体重を落としました。とにかくいろんな健康法をやって、自分の体の反応でやめる、続けるを判断しています。

今は、治療も生きることもすべて自分の責任で判断し実行しています。入院中に知り合ったのですが遺伝性の希少な血液がんの人がいました。その人の場合は、選択できる治療がなかった。望みをかけた移植も寸前でドナーに拒否され叶わなかった。自分で何かを選ぶことさえできなかったのです。それにひきかえ、私はがんになったこと、標本のこと、再発したこと、治療で苦しい思いをしたこと、ぜんぶ人のせいにしていました。もうそれはやめました。

今日のお話会を引き受けたのも、お話したいと思ったからです。私は自分軸で生きる人間に変わりました。

ご清聴ありがとうございました。


祢冝田(ねぎた)満代さん 多重がん(悪性リンパ腫再々発、甲状腺がん)
お子さんとご一緒に



【編集長感想】

後日いくつか追加の質問をさせてもらい、快くご回答をいただきました。

「人のせいにするのは病気になる前からで、要するにずっと他人軸で生きてきた。他人にとって“いい人”を演じて生きてきた。そのくせ、やったことに対してお礼などの見返りがないと“やってあげたのに”という思いが強く、結局、自分自身にストレスをかけ続けていた」

同じことを選択する際、【自分に決定権がある】と【自分に決定権がなかった】とで、選択したことが失敗に終わった場合のダメージは後者のほうが大きいという心理テストの研究があります。レジリエンス(回復力)にも影響するのでしょう。

祢冝田さん、がんを契機に人生の主役の座を取り戻されたのですね。



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